< 血のコラボ >
・弘丁の妻と二人の娘。家族の濃い繋がり、容易に解消することができない縁をあえて「血」という強い言葉を使って表現しました。
□ 臼井明子(妻 日本画家)□
□ 山口るり□
父は、私が生まれた時から看板に文字を書いたりすることが仕事だった。
書道展などにもアートな文字を応募したりしていたが、父が何をしたいのかがまったくわからなかった。彼は、最後の最後まで筆をはなさなかった。
今回私は、「生きることはコラボレーション展」の企画側でもある。
私にとって父の残してくれた「慈」は、「文字」から父との思い出をたどることではないのだ。
目に見える財産は何も残さなかった父が「慈しみ」を遺産にした。
生前の父を知る人も知らない人にもそれを分けなければならないという気がするのだ。なぜならそこには、不純物のない美しさが宿るから。
□ 斎藤あかね□
2013年2月、父の臼井弘丁の死を看取った。
書道家として、また商業デザイナーとして長年活動していた父の最期は、実際の人生の波乱とはかけ離れた、実に静かで穏やかなものであった。
母は日本画家、姉は小学生の頃から(美術)優等生、家には画材や画集、工作で遊べる材料がゴロゴロと常に転がっている環境で育った。現在でも母は描き、姉は夫の転勤で日本と海外の引越を繰返しているが、どこに住んでも好きな彫金を止めることなく続けている。家族の中では一番の(美術)劣等生を自負している私も、何か動物的な本能に従うかのようにアートの香りを求めながら生活しているように思う。一般的にこれが特別なことなのかどうかはわからない。
しかし、父が天国へ旅立つ瞬間を見届けた時、奇妙なことに悲しくなかった。むしろ私の中には父が死をもって遺してくれた希望の灯を受け取った気がしたのだ。それは、父が何十年もの間生み出し続けた作品と、生前に関わった多くの人々との繋がりをよく知っていた安心感からくるものではなかったのではないかと思う。これこそが私達遺族が父から受けた、かけがえの無い特別な贈り物なのではないだろうか。
臼井弘丁の遺作は、父の生き様そのものであり、生きることは誰かと出逢い、コラボレーションしていくことの連続なのだと教えてくれる。
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< 同志のコラボ >
・AFLメンバーとminaさん。同じ目的を持って働いた仲間です。
□ 桜井 純子(AFLメンバー)□
一つのキャンバスを、別の人と共有するということ。
アーティストとして今思えば、それを他の人と出来ただろうか…?
琳派の“書”と“料紙”に発想を得て、書道家 臼井弘丁さんとコラボレーションした。
顔料と箔で描いた自由なイメージをお渡しして、文字選び、どこに文字を入れるかなどはすべてお任せした。
弘丁さんは本名を臼井孝次といい、親友臼井るりのお父さんであった。
私はしょっちゅう、その古くて居心地の良い家に出入りして、弘丁さんの作品を見た。
それからは好きなアーティストになった。
と、言葉ではさらりと流れてしまうが、そうして共有した時間・出来事のすべてによって、弘丁さんは私の中で、他の誰とも代替されない“個”の存在になっていったのだ。
人間に与えられた時間、空間が限られたものである以上、わたしが死ぬまでにそういう“個”の存在として自分の人生に刻める相手は、たくさんはいないだろう。
いま、私の描いた文様の上で生きもののように踊る『楽』の字を見ながら、美大1年の入学検診のとき、出席番号が近くシャツを貸すことになった臼井るりとの出会い、いやもっと前、絵を描きたいと思って美大付属の高校を受験を決意したときから、更に前、小さな手で猫の粘土人形を作っていた幼いわたしの一本の線路が、この人を“個”として人生に刻むまで繰り返した連結の跡を眺めてみる。人生は、完結した閉じた円ではない。連結していく線路のように、いろんな人、出来事によって色も形も大きさも、行き先も変化していくのだ。
□ 藤原崇子(AFLメンバー)□
monでの初めての展覧会「小さな家・小さなアート」で展示、販売した作品を作ったのは、弘丁さんの作業部屋。まさに弘丁さんの"足もとで”でした。奥様 明子さんの日本画の端切れと、弘丁さんの書のはがきを組み合わせる作業でしたが、弘丁さんのそれまでの「人生いろいろ」なエピソードを聞きながら、楽しく、時を忘れて作業したことを強く覚えています。『慈』の気持ちを持ったり、感じたりするこで、人生が豊かに感じることが出来るのだと思います。『慈』をくださった弘丁さんに感謝します。
ギャラリー門で2011年に開催した『Green Days…緑と活きよう』展のメインアーティストだったminaさん。
東日本大震災の直後、日本中が生命の重さを噛み締めているさなか、弘丁を含めたギャラリー門に関わる者が皆、余震で展示物が落下しないかとドキドキしながら気持ちを一つにして創り上げた展覧会でした。
生きコラ展では、minaさんの得意分野、植物を使ったディスプレイとデコレーションで、会場全体を共通の雰囲気にまとめてもらうことにしました。生きコラ展のトータルコーディネイト役といったところでしょうか。
個性の違う複数の作家の作品が展示されている空間を演出するのは 難しいことですが、minaさんは喜んで引き受けて下さいました。
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< 青春のコラボ >
陶芸家首藤氏と友人の村上氏。若い頃と晩年、弘丁にとっても忘れ難い青春を共有した方々です。
首藤さんは弘丁のデザイン学校時代の同級生です。長年友人関係が続いていた方は複数名いらっしゃいましたが、茨城県結城市で陶芸家として活動をしていらっしゃる首藤氏は、生前の弘丁がいつかギャラリー門で展示をしてもらいたいと何度も話していたことを思い出し、やや不安な気持ちでお会いしたことのない氏の工房に電話をしてみました。生きコラ展への出展も快諾していただき、過去のご自分の作品の中から『慈』のイメージに合うものを3点も決めて下さいました。
弘丁の青春には、もう1人欠かせない人物がいます。晩年の弘丁を最期まで思いやって親しくして下さっていた村上さんです。現在は一線を退かれましたが、特殊印刷の技術を持つ印刷会社を経営されていました。アート作品の制作には関わった経験はありません。でも、私達は得意の特殊印刷の技術を活かして、コラボレーションできるに違いないと、迷わず出展を依頼しました。
□ 村上 博□
弘丁さんは自分の5歳歳上の兄の姿と重なり、実弟のように親しく接してもらいました。彼の創造性は文化を推進させる貴重な力だと思います。あの会場を見た時、弘丁さんが立っているのではないかと思う位、身近に感じました。
アートの作品展に参加したのは初めてです。でも、「お客さんにどうしたら感動してもらえるか。」「何か新しい発見をしてもらいたい。」という土台は長年携わってきた特殊印刷の仕事とも共通しています。
東京オリンピックでボランティアをしたいので、英会話を習い始めました。85歳まで働きたいです。
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